初めに
初めまして。
厭世の哲学者と申します。
「見えない大衆は、見えない普通という名の常識と世間体に身を固め、少しのずれを許すこともなく、正義という名の言葉の暴力を振りかざしている」
そう感じてもう何年が経っただろうか。
始まりは高校生の頃だ。
自分は、ただ真面目に授業を受けたかっただけ。
騒ぐ学友達に、「静かに授業は受けられないものか?」とたった一言放ったのが運のツキだった。
何を真面目にやっているのだ。
気持ちが悪い。
先生に取り入っているのか?
そういった陰口がひびき、明らかないじめだとは思わないが、あの教室内には、「あいつは異端である」というレッテルを貼られていた空気を感じた。
全員が全員的に回ったわけではないために、私は疑問を感じながらも高校生活を送ることができたが、何故授業を普通に受けるという学生の目的であるはずの行為が、ここでは成立しないのか。
ただただ悩んでしまった。
自分の普通とは普通ではなかったのか?この学校においては、真面目に勉強することがいけないことなのだろうか。
当然、自らそいつらに屈して勉強をするという行為を捨てることはなかったが、当時の自分にはカルチャーショックであったことは間違いない。
自らが会得していった感覚や価値は、こうも無惨に崩れ去るのかと、恐怖したものである。
ここで問いたいのは高校生の目的論ではない。
私は、真面目という枠と、普通という枠を過信しきっていたのだ。
なるほど、それぞれの組織や集団における普通という価値観はこうも簡単にひっくり返るのだなと感じたのが始まりである。
その後大学では古今東西の思想に触れ、学友とそれこそ哲学や倫理について日夜語り明かした。
早々答えが出るわけでもないことは知っている。
時には口調を荒げ、議論が白熱したこともある。
ただ、その根底にあったのは、
共に違うということを前提に、互いを尊重しあった上で「真実」という共通の価値を追い求めていたということだ。
白熱した議論をよそに、腹が減れば共に学食を食べ、時には家で朝までくだらない話をして過ごす。そこらへんの大学生と何ら変わらない日々を過ごした。
しかし、何かの真実に触れたいという単的な欲求は共に分かち合い、常に切磋琢磨していたのだと思う。
それぞれがみんな違っていいということはもちろんそうだが、そこには共に高めあい、互いに無い価値観には教えてくれてありがとう、そんなスタンスを持っていたと思う。
そんな日々を過ごして時は今になる。
しがない会社員をしている中で日々触れるSNSの問題。
炎上という名のネットリンチ。
有名税という名の誹謗中傷。
最近では死に至る芸能人も増えてきてしまった。
そんなニュースに触れるたび思うのだ。
この国は、あの時のクラスと変わらない。
正しさや真実などは到底関係ないのだ。
それぞれの普通という共通的な思考停止の呪文を唱え集団となる。
そしてそこに外れるものを徹底的にこき下ろすのだ。
それが自由な意志に基づき、自らが正義と信じて疑わない、匿名性を被った化け物がまともに曰うのだ。
私は困殆してしまった。
なんて酷い世界なんだと。
なんて醜い世界なんだと。
そして気づいたのが、「積極的不干渉」である。
そんな集団に関わるなということだ。
そして何よりも、超積極的に干渉する社会はもう捨てないか?ということを提唱したい。
もしこのブログにたどり着いた奇異な存在がいたらお伝えしたい。
私は、歪んでいるとあなたは認識されるかもしれない。
そんな世界はひどくないよと、希望を伝えてくるかもしれない。
私はそんな思想を伝えたいのではない。
もちろん世界を酷く憎んでいるし関わりたくないと思っている。
ただ、この「積極的不干渉」こそが、人類に残された唯一の救いなのではないか。
そう思っている。
私はいつか死に、このインターネットの海もいつか滅びうるやもしれない。
しかし、私という存在が何を感じ、何を思ったのか。
日常に溢れたことをテーマにしながら、記録に残したい。
ただただ厭世的に生きたのではないという、その証をこのブログに残して。
あなたに届けたい。